筆者は男ですが、2025年10月に乳がんと診断されました。11月に摘出手術を行い、翌年1月から放射線治療を受けました。現在は至って健康で、普通に生活しています。この記事は、治療の過程で知った「がん細胞」という存在そのものへの関心から書いたものです。
🐚 がんのことを英語で「キャンサー」といいます。これは、古代ギリシャの医師ヒポクラテスが、がんを「καρκίνος(カルキノス=蟹)」と呼んだことに遡ります。
命名の理由については諸説あり、腫瘍が硬くゴツゴツした外観で蟹の甲羅のように見えたという説と、がんとその周囲に転移したリンパ節が繋がって蟹の脚のように広がって見えたという説があります。
がん細胞とは何か
人間の体内では、約37兆個の細胞がDNAの指示に従って分裂と複製を繰り返しています。この複製の過程でDNAのコピーエラー(突然変異)が発生することがあります。ヒトのDNAは約31億の塩基対で構成されており、1回の細胞分裂で全体がコピーされますが、塩基の取り込みミスは約10万回に1回程度の頻度で起きるとされています。
DNAのコピーは、DNAポリメラーゼというDNAの複製を担う酵素が行います。このDNAポリメラーゼには校正機能が備わっており、塩基の取り込みミスを検出すると、直前に合成した部分を切り取ってやり直します。さらに、校正機能で検出されなかったエラーは、別のタンパク質群による二次的な修復機構によって修正されます。
この2重チェックをすり抜けると、修正を免れたエラーが「変異」として確定します。この変異がDNAのどの遺伝子の領域に位置するかはランダムです。変異がDNAの修復に関わる領域に起これば、その細胞は修復能力が低下し、細胞分裂の際にエラーが発生しても、修正されずに変異が確定する可能性が高くなります。
細胞にはアポトーシス(自己破壊プログラム)が備わっています。正常な細胞は、自分自身のDNAの状態を常に監視しており、その中心的な役割を担うのがp53というタンパク質です。p53は「ゲノムの守護者」とも呼ばれ、DNAに修復不能な損傷を検出すると、まず細胞の分裂を一時停止させて修復を試みます。修復が不可能と判定された場合、p53はアポトーシスを発動します。アポトーシスが発動すると、カスパーゼと呼ばれる酵素が活性化され、細胞のタンパク質を分解し、DNAを規則的に切断していきます。分解された細胞は、マクロファージなどの食細胞が認識し、貪食(食べて消化)します。
修復機構やアポトーシスを制御する遺伝子に変異が発生した場合、修正機能や自己破壊プログラムが機能せず、変異した細胞が存続する可能性が高くなります。こうした細胞が存続すると、「異物」として身体の免疫機能によって攻撃を受けます。漫画「はたらく細胞(清水茜・講談社)」でおなじみの、好中球、キラーT細胞、NK細胞(ナチュラルキラー)、マクロファージ、単球などが免疫系の細胞です。
このように細胞分裂のエラーで生じた突然変異は、修復機能やアポトーシス、免疫機能により、99%以上の確率で修正もしくは排除されます。
そして、変異によってこれらの自己修復機能を逃れ、増殖制御を失った細胞が「がん細胞」になります。
遺伝性のがん
よく「がんは遺伝する」と耳にしますが、がん細胞自体が遺伝しているわけではありません。遺伝するのは、DNA修復やアポトーシスなど、がん化を防ぐ防御機構に関わる遺伝子の変異です。こうした変異を生まれつき持っている場合、多段階の防御のうちの一つが弱い状態になり、がんの発症リスクが高くなります。
代表例としては、DNA修復遺伝子であるBRCA1/BRCA2の変異(乳がん・卵巣がん)や、ミスマッチ修復遺伝子の変異によるリンチ症候群(大腸がん・子宮体がんなど)が知られています。ただし、修復機能に遺伝的な変異があっても、他の防御機構が機能しているため、必ずしもがんが発症するわけではありません。
発がん性物質
タバコの煙やアルコール、ソーセージやベーコンなどの加工肉などには、「発がん性物質」が含まれています。この発がん性物質は、がんを発生させる物質ではなく、「DNAに損傷を与える可能性がある物質」です。細胞分裂の際に発生するコピーエラーに加えて、発がん性物質によってDNAが損傷した変異細胞が発生するため、確率的にがんの発症リスクが高まります。
発がん性物質は化学物質に限りません。紫外線や放射線はDNAの鎖を直接損傷する物理的要因であり、ヒトパピローマウイルス(HPV)による子宮頸がん、ヘリコバクター・ピロリ菌による胃がん、B型・C型肝炎ウイルスによる肝臓がんなど、感染症を介してがんのリスクを高める生物学的要因も確認されています。
放射線治療
放射線治療は、正常細胞とがん細胞の「修復能力の差」を利用した治療法です。がん細胞だけを狙い撃ちする治療ではありません。放射線を照射することで正常細胞もがん細胞もDNAが損傷します。正常細胞はDNA修復機構が機能するため、損傷から回復できますが、がん細胞はゲノム不安定性や修復遺伝子の変異により、同じ損傷を修復する能力が低下しています。この機能的な差を利用し、数週間にわたって照射を繰り返すことで、修復能力の低いがん細胞に致命的な損傷を蓄積させる設計になっています。照射を複数回に分割するのは、照射と照射の間に正常細胞が回復する時間を確保するためです。正常細胞は照射の合間に損傷を修復できますが、修復能力の低いがん細胞は損傷が蓄積し続けます。
放射線治療のメリットは、外科手術で腫瘍を摘出した後、周辺に残存している可能性のあるがん細胞を排除できる点にあります。
逃避と進化
がんに関しては、「進行が早い」「転移する」「早期発見・早期治療」などのキーワードによって、急速に増殖するイメージがあります。「はたらく細胞」でも、がんはコピーに失敗した細胞が無尽蔵に自分のコピーを作り出し、血管やリンパ管に入って転移を目論むといった描写がありますが、ここでは時間の概念が省略されています。
実際には、多段階の防御を回避して存続した1個の変異細胞が、がん細胞として検出可能な大きさ(約1cm・約10億個)に成長するまで、数年から十数年を要します。
免疫からの逃避
正常な細胞の分裂間隔は、細胞の種類によって大きく異なります。1日ほどで分裂する細胞もあれば、数日~数週間といった幅のある細胞もあります。アポトーシスで自滅しなかった変異細胞も、当初は正常細胞と同じ間隔で分裂すると考えられています。ただし、変異細胞は免疫監視機構によって検出され、異常細胞として認識されると駆除されます。
問題になるのは、免疫細胞が完全に排除しきれなかった場合です。運良く生き残った変異細胞は、免疫の圧力を受けながら細胞分裂を繰り返しますが、多くは発見されて排除されます。しかし、中には突然変異により免疫系に認識されにくい特性を持つものが出現します。この変異がいつ、どの細胞に起きるかは予測できません。結果的に、早い段階で免疫逃避の変異を遂げた細胞だけが生き残れるのです。
免疫からの逃避には複数のメカニズムがあることが知られています。代表的なものが「免疫チェックポイントの悪用」です。免疫チェックポイントは、キラーT細胞が正常細胞を攻撃しないようにするための抑止機能ですが、変異細胞の中には、自らを正常細胞に偽装し、キラーT細胞の攻撃を回避するものがあります。
収斂進化
一括りに「がん」といっても、がん細胞は突然変異(コピーエラー)で発生するため、発生する場所も個体の特性も異なります。しかし、免疫逃避のように、がん細胞には共通して獲得する能力があります。
ダグラス・ハナハン博士とロバート・ワインバーグ博士による「がんの特徴」では、がん細胞が獲得する能力として以下の10項目(2011年改訂版)が挙げられています。
- 増殖シグナルの自己供給
外部からの成長シグナルに依存せず、がん細胞自身が増殖を促すシグナルを生成する。 - 増殖抑制シグナルへの不応答
正常細胞の増殖を抑制するブレーキ機構を無視する。 - アポトーシス(細胞死)の回避
損傷した細胞を自己破壊するプログラムを無効化する。 - 無限増殖能の獲得
正常細胞に備わる分裂回数の上限を回避し、無限に増殖する。 - 血管新生の誘導
自らに栄養と酸素を供給する新しい血管を形成させる。 - 浸潤・転移の活性化
原発部位から離れた臓器に移動し、そこで新たな腫瘍を形成する。 - エネルギー代謝の再プログラミング
酸素が十分にある環境でも、効率の低い解糖系を優先的に利用する。 - 免疫による排除の回避
免疫チェックポイントの悪用など、免疫系から逃れる能力。 - ゲノム不安定性と変異の蓄積
DNA修復機構の破綻により、変異が加速度的に蓄積する。 - 腫瘍促進性の炎症
慢性的な炎症を利用して、がんの成長を促進する微小環境を構築する。
これらの能力は、ひとつの遺伝子プログラムとして組み込まれているのではなく、それぞれ別個の突然変異と淘汰の過程で独立に獲得されます。これは、異なる系統の生物が、類似した環境圧のもとで独立して似た形態や機能を獲得する「収斂進化(しゅうれんしんか)」と同じ構造です。
子孫を残せない進化
がん細胞は、突然変異と自然淘汰によって「進化」します。免疫から逃れ、血管を引き込み、栄養を奪い、増殖を続ける。その過程は、生物の進化と同じメカニズムです。
しかし、がん細胞には決定的な限界があります。宿主の死とともに消滅するという点です。
通常の生物は生殖によって遺伝情報を次世代に伝え、種として存続します。ウイルスは宿主間を移動することで次の宿主に感染し、自らの遺伝子を維持し続けます。しかし、がん細胞にはそのどちらの手段もありません。がん細胞は宿主の体内でのみ増殖し、宿主が死ねば、それまでの「進化」の成果は何も残らず消えます。
がん細胞はDNAのコピーエラーの副産物として発生するもので、突然変異のうち生存に有利なものが自然淘汰によって生き残り、増殖して悪性腫瘍になります。
コロラド大学の医師で人類学者のWarren Hernは、人類の活動ががん細胞の振る舞いと構造的に一致すると論じています。隣接する正常組織(生態系)を侵食し、資源を独占的に消費し、廃棄物を排出し、際限なく膨張する。そして、宿主である地球の持続可能性を損なう。
宿主の死とともに消滅する進化。がん細胞を知れば知るほど、地球上で進化してきた人類の姿と重なります。

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